おでかけガイド

未来遺産 雑司が谷がやがやお散歩マップ

この地図は、2015年12月25日よりおもに、3つの地域で配布しています。

  1. 雑司が谷案内処(鬼子母神参道のケヤキ並木)
  2. 雑司が谷地域文化創造館
    (最寄り駅:副都心線雑司が谷)
  3. 豊島区中央図書館(最寄り駅:有楽町線東池袋)
  • 発行:雑司が谷未来遺産推進協議会
  • 協賛:豊島区
  • 発行日:第4版 2018年2月
  • 制作:ヌールエ デザイン総合研究所
  • 表紙イラスト:鶴丸のどか
  • 地図イラスト:Mizuno Nahomi

おでかけスポット

江戸時代から桜の名所として知られているこのお寺は、正しくは威光山法明寺と言います。創建は弘仁元年(810)と区内最古のお寺です。慈覚大師の開基と伝えられ、もとは真言宗でしたが、正和元年(1312)に日蓮聖人の弟子日源上人により改宗されました。
境内左手にある梵鐘には、曲尺、算盤、天秤など度量衡の図案が彫られており、たいへん珍しい梵鐘です。酒井抱一筆の朝顔が描かれた蕣(あさがお)塚があり、また、墓地には楠公息女の墓(姫塚)や豊島氏累代の墓があります。桜の季節には、参道から山門に続く桜並木を見に、多くの方が訪れます。

※正しくは、鬼子母神堂の「鬼」の字は、1画目の角(ツノ)のつかない鬼の字を用います(以下共通)。
創建は天正6年(1578)と伝えられています。清土(文京区目白台)から出土した鬼子母神像を祀るため、里人たちが叢林を拓いて堂を建てたのが始まりと言われています。現在の本殿は寛文4年(1664)に、前田利常の息女で広島藩主浅野家に嫁した自昌院殿の寄進により建立されたもので、区内最古の建造物です。そもそも鬼子母神とはインドの邪神でしたが、釈迦の諌めによって改心し安産・子育ての神となりました。
鬼子母神堂は鬼子母神像を祀る堂で、江戸時代を通じて安産などの信仰により庶民の崇敬を集め、現在でも多くの参詣者を集めています。平成28年5月には、豊島区で「自由学園明日館(平成9年指定)」に次いで2件目の国の重要文化財に指定されました。また、鬼子母神堂内の鳥山石燕画「大森彦七図」、二代目鳥居清満画「三人静白拍子図」の絵画は、東京都文化財に指定されています。
日蓮聖人を供養する「お会式」は、今も毎年10月16日~18日に行われ、枝垂れ桜を模した万灯が夜の街を練り歩きます。境内では、盆踊り、手創り市など様々な催し物も開催され、地域のコミュニティの拠点としても親しまれています。

鬼子母神大門ケヤキ並木

参道のケヤキ並木は、天正年間に雑司ヶ谷村の住人長島内匠が奉納したものと言われ、雑司ヶ谷鬼子母神堂内の大イチョウとともに、東京都の天然記念物に指定されています(昭和15年4月)。樹齢400年を超えている古木が現在も4本残っています。
往時の参道両側には、茗荷屋、蝶屋、武蔵屋などの料理茶屋が並び、『遊歴雑記』にその繁盛ぶりが記されているほか、歌川広重画「江戸高名会亭尽」など浮世絵にも描かれています。
東京都への並木の移管及び管理にあたり、地元有志により“鬼子母神大門欅並木保存会”が設立され、半世紀以上前から保存活動や落ち葉対策に取組んでいます。保存会は、未来遺産協議会メンバーでもあり、平成27年(2015)12月には “雑司が谷案内処”前の枯木跡地に日本ユネスコ協会連盟による、未来遺産登録一周年「記念植樹」が行われました。
写真提供:鬼子母神 大門欅並木 保存会

区内最古の木造洋風建築である旧宣教師館は、明治時代に布教のため来日したアメリカ人宣教師ジョン・ムーディ・マッケーレブにより、明治40年(1907)に自宅兼布教活動の拠点として建てられたものです。カーペンターゴシック様式を用い、屋根窓に半円アーチを施して下見板張りの外壁は、19世紀後半のアメリカの郊外住宅を模した様式といわれ、都内でも貴重な洋風建築です。
マッケーレブは、敷地内に雑司が谷教会を建てたほか、幼児教育や英語教育にも力を注ぎ、雑司ヶ谷幼稚園、雑司ヶ谷学院を開設しましたが、太平洋戦争前夜の昭和16年(1941)、在日米大使館の勧告により帰国を余儀なくされました。
その後、建物は売却され、40年余り日本人が住んでいましたが、マンションに建て替えるという話に保存運動が高まり、昭和57年(1989)に豊島区が取得。保存修理された後、平成元年(1989)から一般公開されています。平成4年(1992)には、豊島区指定有形文化財、平成11年(1999)には、東京都有形文化財に指定されています。入館無料。

  • 所在地:東京都豊島区雑司が谷1-25-5
  • 電話番号:03-3985-4081
  • 営業時間:午前9時~午後4時30分。月曜・第3日曜は休館。
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自由学園明日館

大正10年(1921)に羽仁吉一・もと子夫妻が雑誌「婦人之友」を母体に創立。米国人建築家フランク・ロイド・ライトの設計により建設されました。学校は、昭和9年(1934)に東久留米市に移転しましたが、建物はその時から明日館と呼ばれ現在地に残り、主として卒業生の事業活動のために使われていました。
平成9年(1997)には、区内で初めての国の有形重要文化財(建造物)に指定されましたが、80年の歳月を経て老朽化が進んでいたことから、重要文化財指定を機に1999年から3年間にわたり保存修理工事が行われ、2001年(平成13)11月に再開業しました。修理後は自由に見学可能となり、結婚式や演奏会など多目的スペースとして利用されているほか、公開講座、桜の見学会やビアガーデンなど様々なイベントも実施しています。
見学料:400円(お茶・お菓子付: 600円)。

  • 所在地:東京都豊島区西池袋2−31−3
  • 電話番号:03-3971-7535
  • 営業時間:午前10時~午後4時(入館は3時30分まで)。第3金曜は、午後6時~9時(入館は8:30まで)。休日見学(毎月1回)は、午前10時~午後5時(入館は4時30分まで)。月曜は休館(月曜日が祝日または振替休日の場合は、その翌日)。
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大鳥神社

正徳2年(1712)、出雲松江藩主松平出羽守の嫡子が疱瘡にかかって高田村下屋敷で療養中、出雲鷺の浦から鷺大明神が飛来して救ったといわれ、以来ここに勧請したのが始まりと伝えられています。初め社は鬼子母神境内にありましたが、明治の神仏分離令により現地へ移転し、大鳥神社と改称、日本武尊を祭神として祀っています。11月の酉の市には、商売繁盛を願う人々で賑わいます。

御料地として、3代将軍家光の寛永15年(1638)に薬草栽培の御薬園となり、8代将軍吉宗の享年4年(1719)には御鷹部屋に代わり、将軍の鷹狩に使う鷹の飼育場所として使われていたところです。
その後、明治5年(1872)に神葬墓地として開設され、明治7年(1874)に都営の共葬墓地となっています。面積約10haの霊園は、緑豊かな樹々や四季折々の草花を提供し、副都心池袋に隣接しているとは思えないほどの自然を提供しています。
小説家、芸術家などの著名人が眠る墓地がそこかしこにあり、日本文学史にその名を刻む作家たち、夏目漱石をはじめ小泉八雲、泉鏡花、永井荷風。抒情画家の竹久夢二。自由学園を創設した羽二もと子・吉一夫妻、女医第一号の荻野吟子らが眠っています。
また、災害時の広域避難場所としても指定されています。かつて霊園の外周は、中が見えないように万年塀でしたが、災害時や景観上の問題から、地域の方々の強い思いで平成12年(2000)に生垣化が実現しました。この生垣を守り育てるために周辺地域の方々により組織されたのが、未来遺産協議会メンバーの“緑のこみちの会”です。墓地の生垣の管理だけでなく、花の植え付け、清掃活動や園内のお休み処の管理も行っています。

清立院

日蓮宗、御嶽山。約770年前に真言宗・清龍寺として創立されました。後に村を疫病から救った雲水が日蓮聖人像を寺に残したことから、日蓮宗・清立院と改められました。
門の石段脇に「かさもり 薬王菩薩安置 清立院」と刻まれた石碑があり、雨乞いと皮膚病の祈願寺として尊崇されました。寺院内の木彫毘沙門天像は区の文化財に指定されていて、雑司ヶ谷七福神の一つでもあります。

威光稲荷

法明寺の北側奥にある威光稲荷は、西暦800余年、慈覚大師により堂宇が建立され、威光稲荷大明神を祀ったのが始まりと伝えられています。入口から朱塗りの鳥居が迷路のように続きます。

日蓮宗、妙永山。慶安3年(1650)日相上人により開祖されました。境内には月と花を読み込んだ狂歌二首が蜀山人の筆で刻まれた月花塚があり、江戸文化が偲ばれます。また、本納寺の斜め前に住んでいて、童話作家・戯曲家・詩人である秋田雨雀の墓があります。彼は雑司ヶ谷という土地をこよなく愛し、地域活動にも力を注いでいました。西池袋の舞台芸術学院の初代学長も務めています。
大須賀乙字の句碑もあります。

四面塔尊

鬼子母神参道から板橋宿行く「板橋みち」脇に、享年6年(1721)に建立され、昭和31年(1956)現在地に移りました。辻斬りにあった人々を供養するため正面には「南無妙法蓮華経」のお題目、また、左側面に「南方高田雑司谷道」、右側面には「木の方板橋みち」と刻まれており、道標も兼ねています。

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